2026年5月16日

大切な家族の『声なきサイン』を見逃さないために。
神奈川県茅ケ崎市、アンジェス動物病院 院長 獣医師の朝岡紀行です。
犬猫の一次診療とともに、獣医療の可能性を広げるため、現在は馬の臨床研究にも携わっています。
「馬には人を落ち着かせる力がある」と聞くと、
「そんなことが本当にあるのだろうか」と
半信半疑になる方もいるかもしれません。
私も最初は、どこか感覚的な話なのかなと思っていました。
でも、馬と人の関係について考えはじめると、
話はただの“癒やし”で終わらなくなります。
人はなぜこんなにも疲れてしまうのか。
なぜ感情をうまく扱えなくなるのか。
なぜ人との関わりのなかで、こんなにも消耗してしまうのか。
馬のことを考えているはずなのに、
いつのまにか、私たち自身の生き方の話にたどり着いてしまいます。
人は人を癒やせるのか、という問い
安冨歩教授は「人間で、人間を癒やすのは難しい」と語ります。
この言葉は少し突き放したようにも聞こえますが、
私はむしろとても現実的な言葉だと感じます。
人は他人の苦しみに深く触れれば触れるほど、
自分もまた傷ついたり、消耗したりするからです。
やさしさがあるからこそ、しんどくなる。
誰かを支えたいという気持ちがあるからこそ、無理をしてしまう。
そういうことは、たぶん
多くの人に思い当たるところがあるのではないでしょうか。
医療の現場を思い浮かべると、それはよくわかります。
長時間に及ぶ大きな手術や、重い病の告知のような場面では、
支える側にも強い負荷がかかります。
誰かを助けようとすることが、そのまま自分の負担にもなってしまう。
そういう現実があるからこそ、この言葉には重みがあるのだと思います。
そしてこれは、医療の現場だけの話ではありません。
家庭でも、職場でも、友人関係でも、
私たちは誰かを気づかうほど、
自分の心身がすり減ってしまうことがあります。
感情を合理化すると、何が起きるのか
ここから話は、感情の問題へつながっていきます。
ビバリー・ケーン医学博士は、
「人はネガティブな感情を記憶し、
その感情をあとから合理化してしまうことで、
敵対心や分断を強めることがある」
と語っています。
これは、少し身につまされる話でもあります。
つらかった出来事をそのまま受け止めきれないとき、
人は「自分は悪くない」「あれは仕方なかった」と説明をつけます。
もちろん、それ自体は生きるために必要なことでもあります。
でも、その説明が積み重なるうちに、
本当は痛かったはずの感情が
見えなくなってしまうのではないでしょうか。
学校でも、会社でも、病院でも、
私たちは案外よく「仕方がない」と言い聞かせながら生きています。
そうやって気持ちに蓋をしているうちに、
何に傷ついたのか、どこで無理をしたのか、
自分でもわからなくなっていきます。
一方で馬は、
その場の反応をずっと引きずる存在ではない
と言われます。
嫌な刺激があっても、しばらくすれば草を食み、呼吸を整え、
また目の前の世界へ戻っていきます。
その姿を思うと、人間だけが頭の中で過去を反芻し、
感情をこね回し、苦しみを増幅させているようにも見えてきます。
だから馬と向き合うと、
自分がどれほど緊張を抱え込み、身体から離れて生きているかに
気づかされるのかもしれません。
馬の癒やしは、印象論だけではない
ビバリー博士は、馬は
「いま、この瞬間」に焦点を当て、
過去のトラウマや未来への不安を手放すことを
私たちに教えてくれると述べています。
たしかに馬は、肩書きや理屈ではなく、
そのときの呼吸や身体の緊張、距離の取り方に反応します。
人間同士だと、私たちは
つい説明しすぎますし、評価もしすぎます。
自分の感情にまで理由をつけて、きれいに整えたくなってしまいます。
でも馬は、そういう言葉の層を
ひとまず通り抜けてしまうように感じます。
だから馬のそばにいると、
「ちゃんとしていなければ」という頭の緊張が少しゆるみ、
自分の状態を身体の感覚として思い出せるのではないか。
そんなふうに思います。
こうしたことは、最近では研究の対象にもなっています。
もちろん、馬介在療法や馬とのふれあいに関する研究は、まだ発展途上です。
対象者の数が少ないものもあれば、やり方が統一されていないものも多いようです。
それでも、国内外で、
ストレスの軽減、不安や抑うつの改善、気分の安定、自律神経の落ち着き
といった変化が報告されているのは、とても興味深いことだと思います。
国内では、短時間のふれあいを重ねることで
気分状態の改善がみられた例や、
騎乗・ホーストレッキングの前後で
リラックス傾向が示された報告もあります。
海外でも、トラウマ関連症状や不安の軽減、
安心感や対人信頼の回復を
示唆するレビューが出ています。
「馬との関わりが単なる気休めではなさそうだ」
とは言えそうです。
ただ、ここで
「馬を万能の存在のように語ってしまうのは違うのだろう」
とも思います。
研究にはまだ限界がありますし、
「誰にでも必ず効く」と言える段階でもありません。
それでもなお惹かれるのは、
「言葉だけでは届きにくい場所に、馬との関わりがそっと触れている」
ように見えるからです。
人は頭では納得していても、身体はずっとこわばったまま、
ということがあります。
馬といる時間は、そのずれを柔らかくほどいて、
「いま・ここ」に戻る感覚を思い出させてくれるのかもしれません。
おわりに
人は理屈だけでは生きられません。
関係のなかで傷つき、
また関係のなかで少しずつ回復していきます。
馬は、その回復の入り口を
静かに開いてくれる存在なのかもしれません。
昔、馬は移動や労働を通して人の暮らしを支えていました。
けれど現代では、別の形で人を支えているようにも見えます。
ストレスが積み重なり、
感情をうまく扱えなくなりやすい時代だからこそ、
言葉では届きにくい部分に働きかける存在が、
今あらためて求められているのかもしれません。
馬と向き合う時間は、
「ちゃんとしなければ」と緊張した頭を少しゆるめ、
自分自身の感覚を取り戻す時間になることがあります。
馬は何かを私たちに教え込むわけではありません。
ただ、そこにいる。
その静けさのなかで、
人は少しずつ「いま・ここ」に戻っていくのだと思います。
